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戯曲の一等最初のト書きが好きである。自分で書くときも一等最初のト書きには精魂を尽くす。それだけ劇世界の出だしは重要であり、これから始まる物語の全てが詰まっていると言っても過言ではない。
演劇生活も30余年になり、読んだ戯曲、演出した戯曲、そして自分が書いた戯曲は優に1000本は越えている。その多くの戯曲の中から毎回1本を取り上げ、ト書きから見える、見えた、見ようとした、未だ見えない様々な風景を書き継いでいく。
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第七篇 安部公房 黒い喜劇「友達」('67年)
甘い誘惑的なメロディで幕が開く。
  夜の都会は
  糸がちぎれた首飾り
  あちらこちらに
  とび散って
  あたためてくれたあの胸は
  どこへ行ってしまった
  迷いっ子 迷いっ子
舞台には、中央でV字型に合わさった、衝立風の二枚の大きな壁。その上に、音楽のリズムに合わせて、左右から四人ずつの人影が現れ、次第に大きくなり、ついに客席にのしかかる巨人のようになる。
歌が終わると同時に、両袖からそれぞれ、影の主たちが姿を現わす。計八人の、きわめて平均的なくせに、どことなく怪しげな家族たちだ。誰もがまだ無表情な、機械的な動作であること。その中から、次女が一人、中央に進み出る。メロディだけは、続いていたほうがよい。

 前回のアラバール「戦場のピクニック」に続いてまた不条理劇である。個人的な指向がもろに反映されるこの連載だが、この戯曲のことを書いてくれと言うオーダーで戯曲を選択しているわけではないので、この偏向はお許しいただきたい。
おまけに創作年も「戦場の…」と同じ1967年。この年にどんな戯曲が書かれたのか調べてみた。
 新劇全盛なのだが、アングラの萌芽がある。寺山修司「アダムとイブ わが犯罪学」「青森県のせむし男」「大山デブ子の犯罪」「毛皮のマリー」、唐十郎「アリババ」「ジョン・シルバー 新宿恋しや夜鳴篇」、内田栄一「流れ者の美学」「ゴキブリの作り方」、佐藤信「あたしのビートルズ」、別役実「カンガルー」など。寺山修司が天井桟敷を旗揚げし、精力的に戯曲執筆を開始した時期に当たる。
 そんな時代に書かれた「友達」は上記のアングラ芝居の戯曲より先鋭的かもしれない。8人の家族が(本当の家族なのかは不分明)都会で孤独な暮らしを送っている人を捜しては友情を届けることを使命としている。背景には大家族が終焉し、核家族時代の幕開けがあると思う。誤読をすれば大家族(農村文化)の核家族(都市文化)への攻撃ともとれる。
 テーマソングがふざけている。勿論わざとらしさと偽善に包まれた歌で、ムード歌謡コーラスである。サム・テーラー風な通俗的で下品なサックスの音が聞こえるようだ。また、この歌詞の「糸がちぎれた首飾り あちらこちらに とび散って」というフレーズと8人家族という設定から「南総里見八犬伝」を想起することも可能だろう。どこかでバラバラになってしまった人々が家族というカテゴリーを基に強力な紐帯を組み上げてしまった。その紐帯の証明は友情の押し売りに現れる。 
 「きわめて平均的なくせに、どことなく怪しげな家族たち」このト書きに指定される人物設定は難しい。平均的でどことなく怪しいというのが一番難物である。平均的とか普通の、というのはどういうことなのか?芝居は平均と普通を描くのが一番苦手なのだ。役者に聞いてみるのが手っ取り早い。リアリズム演劇とか、平田オリザ達が始めた静かな演劇というジャンルに平均的で普通の人々が登場するだろうか?否である。リアリズム演劇の内面描写と言われるものの嘘くささはどうだろう。リアリズム演劇=ド新劇は過剰な感情表現しかできない人々の群れである。そして静かな演劇は平均や普通を批評している。だから上演される舞台は平均でも普通でもない。計算尽くされた平均と普通が描写されている。だから「友達」を演じる俳優は極めて難しい役作りをしなければならないだろう。初演は「青年座」だから新劇的にやられたのであろう。とすると役者のオーバーな演技が鼻をついたかもしれない。想像ですが。
 この家族は一人住まいの青年のアパートの一室に侵入、すんなりと住みついてしまうが、通報を受けた警官も大家もそれを不思議に思わないというのが、この芝居の第一関門で、ここが突破されればあとは家族のやりたい放題になっていく。ついには悲劇的なことになってしまうのだが。
 現在、この手のことが公になり事件になった例は暇がない。「友達」の書かれた60年代から世間はこの手の事件を面白がってきたが、その裏には都会という底なしの沼が存在している。沼にはまってしまった自分たち自身を照射する事件が自分たちを覚醒させる。が、それも一時。気づいてみれば自分の心にもうひとつ沼が出来ている。そしてその沼は都会のそれより、もっと底なしの沼だったりする。8人の家族はその自分の沼から這い上がってきた自分そのものなのだ。

 私は「友達」を2000年に仙台市主催「演劇ビギナーズ・ワークショップ」試演会で演出している。全2幕13場のうち1幕1場から6場までを構成したもので人数の関係からダブルキャストを組んだ登場人物もある。受講生14名中
今でも芝居の世界にいるのは1名だと思う。でも、高校生、大学生が多かったから現在どこかでやっているかも知れないが。

 安部公房「友達」は「棒になった男」「榎本武揚」併載で新潮文庫から出ている。ただこれは改訂版らしい。今回のト書きの底本は「現代日本戯曲大系」第7巻からのものである。

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